国民主権について
戦後、日本は連合国によるポツダム体制が敷かれ、米国の保護国化した。同時に冷戦がはじまり連合国体制は崩壊した。そのため当初は米国は日本の再軍備を防ぎ弱小国化をねらったのだが、監視しつつ保護し、再軍備させて同盟国として扱うことになる。
日本は外交・防衛という独立国家のもっとも重要な任務をアメリカに任せてしまった。
外交防衛を考えなくてよいとなれば内政だけであるから、経済成長と福祉の充実になるのは当然で、それをむしろ幸運であると考える風潮になった。
そして経済政策は成功し、世界第2のGDPを誇るまでになった。アメリカは当初のねらいからはなれて日本は競争相手として巨大な存在となった。全く別の方向になって、自国はむしろ経済的に苦しむ状況に置かれる。そして東西冷戦は、米ソの代理戦争としてもベトナム戦争でアメリカは敗北を喫し、国家威信も精神も傷ついた。
冷戦中に社会主義の陣営強化のため、支那を社会主義化し、ともに米国と対峙するはずが、支那がソ連の思い通りにならず、独自路線を選ぶ、やがて中ソ対立が激しくなり、アメリカは支那を抱き込み中ソ分離作戦に出るのが米中和解作戦だ。ソ連は歴史的に凍らない港をもつ南方への侵略意図を隠さないし、実際にアフガンへ侵攻した。ここでアメリカは苦汁をなめたベトナム戦争の泥沼と同じような状況を作り出すためにアフガンゲリラを支援した。自由民主主義と資本主義のリーダーとして君臨し、なんでも世界一でないと気が済まないアメリカは、思いもよらない事態に困惑する。それはライバルの社会主義陣営のリーダーソ連も同じで、軍備拡張競争したあげく、疲弊してしまう。
その超大国の退潮を尻目に、敗戦国の日本とドイツは世界経済を引っ張る役割を果たすという皮肉。
日本の貿易黒字を減らそうといろいろバッシング策略を適用してみたものの、そのたびに日本経済は強くなっていく。そしてついにソ連が軍拡競争に耐えきれなくなって経済が崩壊し、東西冷戦が終わる。
ここでアメリカは日本を防衛する必然性が消滅することになる。東西冷戦はもう無いのだから。手ごわい競争相手なので、保護する必要性はさらさらなかった。
日本に対し、普通の独立国として、自立した国家として防衛義務を果たせというようになる。もうアメリカは世界の警察官ではない、というわけだ。
外交・防衛という課題・難題をいっさい考慮せずに経済成長だけに邁進してきた日本は、独立国家ということにあらためて思考しなくてはならない事態に立ち入った。
それは実は歓迎すべきことで、いいことなのだ。だが長く「国家」というものに思考停止してきた日本人には、あまりに別の世界のことで困惑するばかり。
軍事外交を除くならば国政は内政だけなので、社民党でさえも務まるものだ。国会も些末なことにバカ騒ぎをやっていられる。
平和・人権・反原発・反基地・・・など叫ぶ人たちは、内政からしかものを見ていない。国際政治の現実を見ようとしない。
本来はこういう人たちも国民なのだから主権者なのだが、国家の主権は国民にあると憲法で宣言している以上、主権者として発言していることにはなるが、軍事も外交も無知なのに主権を行使するというのは実に危険なことだ。古代ギリシャの時代から主権者は自らの意志で最前線に出て戦うもののことを言ったものだった。
国民主権というのは、軍事外交を王侯貴族でなく国民が考える、ということだから、憲法で宣言するのは天皇主権を否定するために国民主権を持ち出したもので、GHQが指導または監督するという前提があったので内政に関する限り国民主権でもいい、と発布されたものだった。
ここで憲法をどうするか、防衛政策はどうするか、外交の基本をどこにおくか、を決めていかなくてはならないだろう。
それは戦前回帰だとか、暗黒の天皇制回帰だとか、民主主義の否定だとか、おかしな反応が多いのはポツダム体制に馴染みすぎているせいだ。
ポツダム体制は戦後すぐ壊れ、冷戦も終わり、アメリカの衰退と支那の軍事力増大という事実を突きつけられても、ボーっと生きていられるのは幸せか?


最近のコメント