萌えいづる春
いい季節ですね。若いころは五月病で欝の気分がよみがえり、春が嫌いだった。今は心の動揺もなく春を楽しめます。窓から見えるお茶畑の緑が生命を感じさせます。
高野辰之の「朧月夜」は、こういう季節の千曲川のほとりを逍遥したふるさとを思い描いて書いたものだろうと思う。
菜の花畑に 入日薄れ
見渡す限りに 霞深し
春風そよ吹く 空を見れば
夕月かかりて 匂い淡し
なんと情景豊かな詩だろう。自分はこう思うとか、うれしいとか、かなしいとか、まして色恋沙汰ではなく、淡々と情景を詠うのみです。日本のふるさとの光景はみなこのようなものでした。
「国敗れて山河あり」という時代から「国栄えて山河無し」になってしまいました。高野辰之も明治の文部官僚でしたが、薩長閥以外は栄達の道は閉ざされており、青雲の志を抱いて東京へ出てみたものの、やはり挫折というか、屈折した思いを抱かざるを得なくなります。故郷で学校教師をやる約束で学校を出してもらいながらふるさとを捨てて、親を捨てて、東京で悶々としている自分を感じていて、そして名曲「ふるさと」を書くのです。2番、3番の歌詞はそうやって読むのです。故郷へのノスタルジーの歌ではなく、怨念が隠された歌なのです。「俺は馬鹿だった」という忸怩たる思いが感じられます。
家業を継ぐ、家を継ぐのが当たり前だった時代から、一転選択の自由の時代になり、競争と盛衰交代の時代になって果たして幸せになったのかどうか。
自分の選択に間違いはなかったと常に確認と強制納得が必要になる。そして必然的に落ちこぼれがある。タタリや物の怪や不信心のせいにもできなくなれば鬱病になるしかないではないか。
春にはそういう精神の不安定さがふとよぎるときがある。


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