小国神社のこと(5)
小国神社が一宮の地位を獲得した頃のことを少し。
1082年に清原則房が宮司に補任、1083年に遠江国司の藤原惟信が清原を小国神社宮司に補任、という人事発令が事の起こりだった。
この藤原惟信という男、1079年には甲斐権守(かいのごんのかみ)として甲府に赴任している。甲斐の守に次ぐ地位だったはず。そのまま遠江に横滑りしたのだろうか?
さらにこの男、少納言時代に上野(こうずけ)に荘園を作ろうと画策したが1069年に荘園整理令が出て断念している。
そのあたりの中央政界の様子を探ると、
1068:後三条天皇即位、後冷泉天皇が子なくして死んだため、藤原にゆかりのない天皇 の誕生となった。
1069:天皇、荘園整理令を発令し、藤原の勢力削減を狙う。
1072:白川天皇即位 父後三条の意を受け継ぎ藤原の権力をそぐ政策継続
1082:朝廷、清原則房を宮司に補任
1083:後三年の役、源義家が奥州平定、富士山噴火
藤原惟信遠江国司として清原則房を小国神社に補任
1086:白川天皇譲位し上皇へ
1107:鳥羽天皇を即位させ、院政続行
1123:鳥羽天皇を退位させ、ひ孫の崇徳天皇を即位させ院政続行
北面の武士を置き、権力強化
1144:白川上皇、57年の院政を行い、治天の君と呼ばれる
とまあ白川上皇の一人天下だったことがわかる。藤原はなんとか失地回復を画策したがことごとく失敗し、やがて武士の台頭を招くことになってしまう。
で、藤原惟信だが、1082年に甲斐の権守から遠江国司に補任され、まず考えたのは白河天皇にゴマをすることではなかったか。「早く都にもどしてください」とはいわなかっただろうが、もう荘園は作れないし、なんとかしなければ、なんとか、、、というあせりの中で考え付いたアイデアが、宗教ネットワークを改革してその経済力を横取りするということではなかったか。
遠く北国では地方豪族が内紛を起こし、源義家が介入して後三年の役となっている。中央はこれを義家の私闘だとして報償を認めなかった。この判断の裏には白河天皇の意志が働いていたことだろう。するとこのような形で領土を拡大することは認められない時代になっていたことになる。義家の東北遠征の際に国府に立ち寄ったはずだから、国司である惟信と会談しているかもしれない。このとき富士山も噴火しているが、惟信はこれも東国の国神の怒りを鎮めるためだとして利用したかもしれない。
ふー、いつの時代でも役人はろくなヤツがおらんのう。


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